ミャンマー最終日【メディテーション@ミャンマー22】
2018年12月16日
ミャンマー最終日。最後にボランティアとして滞在しているタバワセンターの患者さんに丁寧にマッサージをした。
海外で宗教について聞かれるたびに、「仏教徒です」と言いながら、嘘をついている気持ちになるのが嫌で、仏教について少しでも知れたらいいなと思ってきたミャンマーの寺院。
瞑想(メディテーション)にも興味があるし、一石二鳥だな!くらいに思っていた。
そんな軽い気持ちで来たミャンマーだったのに、一か月滞在して、瞑想したり、ボランティアをしたりしているうちに、人について考えないわけにはいかなくなった。
人見知りで、人との関りは極力避けたいと思っていた、今まで長く付き合ってきた自分と、ボランティア中に人の輪の中にいて必要とされたり、したりすること、自分の働きかけで相手を助けられることが心地いいと感じた自分が見事にぶつかって、もうぐちゃぐちゃだ。
瞑想についてもそう。
始める前は、静かなところで、静かに自己を見つめる、ひたすら孤独な自己への旅だと思っていた。
ところが、モンク(僧侶)が言うには、生きている時間すべてが瞑想の時間だという。
そして、実際に感情が揺れ動き、本当に瞑想の成果が必要になるのは、静かな森の中ではなく、雑音が飛び交う、人との関りの中(生や死も含めて)だ。
瞑想の達人だ!という人がガンの宣告を受けてひどく取り乱した、という話も聞いた。
農業をしていると(農業に限った話ではないと思うけれど)、一人ではできないことが多々ある。でも、そんな簡単な、表面的な比喩を持ち出して、「人は一人では生きられない」と語るよりも、もっともっと深いところから、人の世は人ありきでできているんだなぁと、いまさらながら実感した。
その周りには当然、草木や動物、地球に(宇宙に?)存在するありとあらゆる物質がある。意識していなくても、ちゃんとある。
道理さえしっかりしていたら、迷惑かければいいし、迷惑かけられればいい。助けてもらえばうれしくなるし、助ければうれしくなる。人付き合いは面倒なことも多いけれど、どうせ、物理的にも、精神的にも、もっと大きな流れでもつながらないといけないんだから、それなら幸せにつながって、そのまま世界が平和になればいいと思ったミャンマー旅だった。
幸せを幸せだと認識するために、自己と世界を知るために、これからも瞑想の修行は続けていこうと思う。そういう意味では仏教徒で、嘘ではないのかな、と当初の目的は一応決着がついた。