肉を喰らうこと【ファームステイ@モンゴル22】

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モンゴルで何度か羊を捌くところを見た。

ヤギと羊



羊を殺したら、まずは腹を裂き、内臓を破らないように気を付けながら取り出す。肉が糞や分泌地物で汚れないようにするためだ。

捌きたての内臓は取り出しも湯気を立てながらまだ動いている。腸が一番わかりやすくうねうねしていた。でも、もう「生きて」いない。

内臓を仕分けし、食べられるところと食べられないところに分ける。羊を殺した瞬間からおこぼれを待っている犬、猫に食べられない部位は投げてやる。

それから皮を剥ぎ、肉を適当な大きさに切り分けてつるす。

一連の作業は、迷いなく、ともすれば美しいとも言える滑らかさで行われる。その手つきは、羊を捌く行為がいかに日常的な、慣れた作業であるかを私に教えた。ここでは「私」が生きるということは、「私」が殺すということだ。

生きることは殺すこと。使い古された言葉が、解体され、徐々に小さく冷たくなっていく肉と、血の匂いで生々しく迫ってきた。

圧倒されている間に、解体の方は片付けまできれいに終わる。床には血の一滴もない。

以前、日本で屠畜場に行ったときに嗅いだ匂いも、映像で聞いた、動物たちが苦しむ声もなく、モンゴルの人の動物に対する真摯さというか、ある種の敬意のようなものが感じられた。




一方で、こんなこともあった。

以前食肉売り場に立ち寄った際、友人と写真を撮っていて、売り手の女性に包丁を振り回しながら怒鳴られたことがある。「解体してやるぞ!」というようなことを言っていたらしい。



一緒にいたガイドさんが、怒鳴り返し、私たちに

「毎日なん十頭も動物を殺しているからおかしくなっているんだ。かわいい瞳で見つめてくる相手を追い詰めて、殺さないといけないんだから、気も狂うさ。」

と肩を竦めながら苦笑交じりに言った。



こういう命のやり取りについて考えるとき、答えの出ないもどかしさやジレンマを抱えるのは私だけではないと思う。この記事を読んでくれているということは、あなたも考えたことがあるだろう。

生き物を殺すのは「かわいそう」だ。痛い、苦しいに決まっている。私たちが感謝しながらいただいたところで、食べてくれてありがとう、なんて当の本人(人ではないが)が思うわけがない。 子供のころ、生きたカニを煮立った鍋にいれる瞬間に立ち会って大泣きしてから、ずっとそう思っている。徐々に赤く染まるカニが苦しそうでかわいそうでたまらなかった。

それでも日々、食べることはやめられない。それは、私たちにとって、生きることの根幹であり、楽しみでもある。相変わらずカニも食べる。鳥も、羊も、殺す瞬間を見てさえ、食べるのをやめようとは思わなかった。
肉を食べるのもはるか昔から続く営みの一つであるし、雑食であったからこそ、人はこれだけ繁殖できたのだとも聞いたことがある。


ここで私は、モンゴルで肉ばかりを食べ、見聞きし、考えたことや、ミャンマーの寺院での体験、ヨーロッパでベジタリアン、ビーガンの人と一緒に暮らし、一切肉を食べない生活をしたことなど、すべてをまとめて、仏教的な、ある意味日本的な、中道の立場をとりたいと思う。(ミャンマー仏教は肉禁止だけれど。ヨーロッパの話、ミャンマーの話は順次書いていきます。)

まだ勉強中、考え中で、うまく説明できないのだけれど、二つの対立を離れたところに立ちたい。善悪の判断を離れて、ヒトの当然の姿をそのまま受け入れられればいいと思う。

つまり、結局、いままで通り、肉も食べるし、野菜も食べる。

それは、それが「自然」だからだ。食べたいものは、自分の体が知っている。そういう湧き出る欲望が、「自然」にしていても「道」から外れないような人間になりたいと思っている。現在28歳だから、80まで生きられたらあと50年。それまでには何とかしたい。

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